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インスティトゥト・セルバンテス東京公式ブログ

インスティトゥト・セルバンテス東京の公式ブログです。スペイン語、スペイン語圏の文化に関するコースやイベントの情報が満載!

マルティン・チャンビ、光の詩人

マルティン・チャンビの作品を筆頭にクスコ写真学校の展覧会が東京に来ます

 

マルティン・チャンビは「光の詩人」としても知られており、南米大陸において重要な写真家の一人でした。同時に最初の先住民族の肖像画家でもありました。芸術家である彼は、半世紀の間、ペル-の建築、彼の社会、アンデスの通路を記録しました。そしてまた、マチュピチュの城砦の写真レポートを一番最初に実現したのも彼でした。当時、独特の美的感覚に溢れた彼の独特のテクニカルスタイによって、20世紀のラテンアメリカの写真の中で最も優れたイメージを獲得しました。

マルティンは、最初に写真カメラを発見したとき、まだ子供でした。彼はサント・ドミンゴ鉱業社の現地作業員の一人として、カラバジャの鉱山で働いていました。ある日、この地域のグラフィック・ドキュメンテーションを担当する英国の技術者が、若いプネーニョの人生を象徴する奇妙な人工物を持ってきました。それがカメラであり、紙の上に瞬間と現実を不滅にすることができる人工物でした。

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それ以来、チャンビは自分自身が、残りの永遠の瞬間をとらえる役割を果たすことができるという考えに魅了されました。 このため、雨の影響により鉱山の入り口に蓄えられた金塊を拾い集め、2年という歳月をすごしました。 彼はボトルを金塊で一杯にできたとき、写真家の弟子となる経費を払うことができたのでした。そして、仕事をやめ、有名な写真家、マックス・ティ・ヴァルガスと一緒にアレキパに移りました。 そこでは、今日、彼の写真帝国としてわれわれが知っているものを実現するために必要なものすべてを学びました。

マーティンのスタイルは、ウォーカー・エヴァンスやリチャード・アヴェドンなど、歴史的に最も重要な写真家のいくつかの技術と一致していました。 もちろん、彼のすばらしい努力と最も難しいシナリオに滑り込む能力によって、彼の作品は、ニューヨークの近代美術館の象徴である「20世紀最も偉大な作品の一つ」として賞賛されました

チャンビは、ラバに乗り、巨大でかさばる大規模なフォーマットのカメラを運びながら、インカの領土を周りました。 インディアン、メスティーゾ、白人は数え切れないほどの機会に彼の目の前でポ-ズをとりました。 彼の芸術的なすべてのスペクトルは、「光の詩人」というニックネームにふさわしいものでした。彼は光が細部と理想的なコントラストで飾られた完璧な瞬間を表現するのを忍耐強く待ち続け、まるで絵であるかのように彼の写真を構成していたからです。

彼は非常に多様な写真のテーマを取り入れたにも関わらず、彼の弱点は常に先住民族の肖像画でした。マルティン・チャンビはケチュア語を話す農民の家族の出身でしたので、インド人とのつながりは血のつながりでした。 彼の写真では、農夫、羊飼い、地元の人物など、あらゆる種類のプロフィールを描いていました。 彼らの誰もが彼の写真の1枚を買うのに支払う十分なお金を持っていませんでしたが、「光の詩人」は彼が撮ったイメージのコピーを彼らに贈っていました。チャンビは、ドキュメンタリー主義と社会的告発、同様に保護されていないグループに対する意識への働きかけをしました。

 

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展覧会のオープニングは11月21日水曜日、午後6時30分、インスティトゥ-ト・セルバンテス東京で開催されます。 12月12日まで公開しております。 この展覧会では、マルティン・チャンビを代表するクスコの写真学校の作品が集められていますが、クリサント・カブレラ、セザール・メザ、オラシオ・オチョア、ダヴィッド・サラス、フィデル・モラ、パブロ・ヴェラメンディ、アヴェリーノ・オチョア、日系ペル-人エウロヒオ・ニシヤマなどの他の学校の代表者の作品もご覧いただけます。

 

本文 : ルイス・ア・ペレス

翻訳 : 成田 千恵

 

Bibliografía Consultada:

 

インスティトゥート・セルバンテス東京で、音楽、料理、スペイン系ユダヤ人の文化を

第三回スペイン語・スペイン語圏文化国際会議において、スペイン系ユダヤ人文化の豊かさが初めて詳細に東京に紹介されます。スペイン系ユダヤ人(セファルディ)コミュニティの分析に二日間捧げられます。

「第三回スペイン語・スペイン語圏文化国際会議」は、今年インスティトゥート・セルバンテス東京で再開されることとなりました。日本における「スペイン語観測所」主催イベントが、スペインと日本の外交関係 150 周年という特別な機会に開催されます。

10 月4、5、6日の3日間に東京の中心部で 複数の主題についての多様な活動が繰り広げられます。今回、プログラムには、音楽のコンサ-ト、グルメの試食と様々な言語学やスペイン文学と関連した講義が含まれています。

今年の会議の主要テーマはセファルディ(スペイン系ユダヤ人)の影響によって特徴づけられます。10 月 4 日は「セファルディ 文化の日」として、 前会議と同じようにスペイン語圏のイベントが開催されます。パコ・ディエスはセファルディ音楽において最も重要なスペイン人のスペシャリストとして知られており、午後、バンドの演奏を担当してくれます。さらに、スペインのユダヤ人ネットワークの写真展は、ご参加の皆様が多様なスペイン系ユダヤ人の伝統の文化を鑑賞いただくための糸口として役立つことでしょう。その上、一日の終わりにはお菓子の試食やコーシャ ワインの試飲をお楽しみいただけます。

10月5、6日は会議に二日間を捧げます。この二日間においては、スペイン語圏全体、スペイン人、ラテンアメリカ人そして日本人の専門家が参加し、野谷文昭教授がラテン アメリカ文学の最も重要な作品の翻訳における実際の経験について話される、翻訳の世界に専念する時間も設けられています。このように、インスティトゥート・セルバンテス東京の開設10周年記念のイベントの最後を飾ります。

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セファルディについての補足説明

ユダヤ人は 1492 年にスペイン(ヘブライ語ではセファラド) から追放されました。彼らはすでに、ほとんどのヨーロッパ諸国から追放されていました。例としては、エドゥアルド1世 (1290)によってイギリスで、フランスの王フェリペ 4 世 (1306)によってフランスで、またハンガリーなど、黒死病とユダヤ人の追放を行った国々が挙げられます。その後、スペインにおいても追放が行われました。続いて教皇ピオ5世が教皇の領域を放棄するよう、すべてのユダヤ人に命令し、ポルトガル (1496) やイタリア (1569)でも追放がおこなわれました。その後、王フェリペ 2 世は1597 年の春にミラノからユダヤ人を追放しました。

これらのひどいと不当な追放の巨額の損失から回復できる国はありません。追放されたスペイン系ユダヤ人、セファルディは、北アフリカ、ギリシャとトルコなど別の場所にに定住しました。スペインつまりセファラドとの関係は途絶えることなく、スペイン語、音楽、文学、文化全てを保ち続けています。我々はスペインのセファラド・イスラエル センターとユダヤ人ネットワークの協力で、このテーマを扱う日本人専門家を通して、セファラディ、ディアスポラ(パレスチナ以外の地に住むユダヤ人、またその社会)、音楽、料理、文学の遺産の歴史を知ることが出来ます。

Texto: Luis A. Pérez

Traducido  por:   成田 千恵

 

インスティトゥート・セルバンテス文化センター長にルイス ・ ガルシア ・ モンテロが就任。

スペイン政府の閣僚は、7 月 20 日、インスティトゥート・セルバンテス文化センター長に、作家であり教授のルイス ・ ガルシア ・ モンテロ (グラナダ、1958) を任命しました。

ガルシア・ モンテロは、グラナダ大学でスペイン語文学の教授であるとともに、詩人、ナレーター、エッセイストでもあります。彼の経歴において、1994 年の国民文学賞受賞をはじめ、その他多数の文学賞を受賞しています。FER_0353 (1) オリフエラ (アリカンテ) で 7 月23日から 26 日に開催されたインスティトゥート・セルバンテスの取締役の年次総会の中で、ガルシア・ モンテロは「最大の透明性」を達成するという使命において機関での責任を果たすことを表明しました。また、「私は話すよりも聞くためにここへ来ました。何かを言葉にする前に考えることを好みます。」と言明しました。ガルシア・ モンテロは同時に、スペイン語とその文化は海外における私たちの存在の基本的な特徴のシンボルであり、世界中のスペインのイメージに不可欠な土台であると述べました。また、「スペイン語そして国家と国に統合された国籍の文化」を守ると宣言しました。

8 月 1 日、彼の就任式で、詩人、小説家、随筆家、およびグラナダ大学の教授である彼は「スペインやヨーロッパとラテン アメリカ間の架け橋としての言語でパンヒスパニック・エネルギーの外交文化」を提唱しました。同時にワシントンにセンターを開設し、サハラ以南のアフリカとアジアで機関のネットワークを拡大するという意欲を表明しました。

ガルシア ・モンテロはインスティトゥート・セルバンテスのセンター長として、彼の詩の一つであるUn idioma、また彼の本のVista cansadaの朗読によって、これらの引用を用いて、任務を果たすことと「人々の尊厳、言語の唯一の所有者」を主張し,彼の宣誓を締めくくりました。

この記事のより完全版はスペインのインスティトゥート・セルバンテス中央本部のウェブサイトで閲覧いただけます。

Traducido por Chie Narita

Información elaborada por el Departamento de Prensa del Instituto Cervantes.

Resumen elaborado por Luis A. Pérez Rodríguez

Foto: Instituto Cervantes (Fernando Gutiérrez Llorente)

スペインで一番好きなこと (Kana Shimokawatoko)

concurso Iberiaイベリア航空による小作文コンテスト スペインで一番好きなこと

私がスペインに行く時は、いつも抱擁とキスを求めていく。日本には、スペインの ように人と抱擁やキスを日常的に交わす文化がない。大抵の場合、私たちは、特定 の親密な相手と、特定の状況で以外、お互いに触れることなく人生を送っている。 両親からでさえ、抱きしめたりキスしたりしてもらえるのは、ほんの幼い頃だけで ある。

私たちはそんな生活に慣れてしまっている。でもたまにスペインに行き、気のおけ ない友人や、はたまた会ったばかりの人とも触れ合って体温を交わす時、その温か さにはっとする。熱を交わさない人間関係の中で生きながら、そしてその生活を良 しとしながら、実は自分が心の奥ではそれを強く求めていたのだということに気づ いて、びっくりする。

落ち込んだ時、あの国は、少しもためらわずに私の肩を抱き寄せ、慰めてくれる。 喜びを分かち合い、一緒に涙を流してくれる。別れを惜しみ、互いの人生の一瞬を 抱きしめ合う。時々そういった、あの国では当たり前の営みが、たまらなく恋しく なる時がある。

その恋しさが、私をまたあの国へと帰す。誰かに強く抱きしめてもらいたい。誰か との血の通った温かな出会いと別れを交わしたい。誰かの人生の温度にこの手で触 れたい。そして私の人生に触れてほしい。スペインで一番好きなこと、それはスペ インがいつも私を優しく抱きしめてくれるということなんだ。

難破船が残した300の抱擁と1つの時計

今年、2018年で、スペインと日本は両国の友好通商航海条約によって結ばれた外交関係が始まって、 150 周年を迎えます。以前の記事で、私たちが今日焦点をあてた難破事故について、より具体的に言及し、これらの関係の起源についてお話ししました。

日本の内戦時代の後、徳川家康が日本を統一し、2 世紀以上にわたって続く時代に名を与えた江戸 (現在の東京) に首都を移したのは 1603 年の年でした。

その時代、スペイン帝国があったフィリピンの主要拠点、マニラは最も有名な一つです。このため、フィリピン近くの海で、スペインの船は頻繁に運航されていました。そのため、マニラから1609 年にサンフランシスコ、サンタ ・ アナ、サン ・ アントニオという名前の3 つの ガリオン船が新しいスペイン (メキシコ) へ向けて出航しました。

天候不良のため、他の二つの船と離れ離れになることを余儀なくされたサンフランシスコは、運悪くも、9月30日、大嵐の後、関東の海岸付近を漂流し、ちょうど千葉県の海岸沿い村、御宿の岩和田の海岸に漂着した。

船で旅行していた 373 人のうち、56人 がこの事故により死亡しました。しかし、他の 317人の 乗組員は救出され、岩和田の 300 人の村人によって助けられ、もてなされました。村の海女たち(魚介類を採る女性たち)が、低い水温とおそらくこの状況のストレスのせいで震えていた生存者たちを救出しました。、いくつかの情報源によると、彼女らは漂流者たちを親身に救出したようです。自らの肌で漂流者たちを温め、保護したのです。だからこそ、このエピソードは時に、«抱擁の難破船» と呼ばれています。

このような恐ろしい事故の後、 漂流者たちは、岩和田の村の近く、37日間を過ごした大宮の寺に滞在を許されました。フィリピンの元知事で破損した船の乗客であったロドリゴ ・ デ ・ ヴィベロは将軍、徳川秀忠に会うために江戸へ訪問し、後に彼の父、徳川家康を駿府へ訪問する許可を受け取りました。このため、ドン ・ ロドリゴは日本に滞在し、ガリオン船サンタ・アナでのメキシコへの旅あきらめることを決めました。

将軍との会談では、外交のいくつかの問題を見い出しました。ドン ・ ロドリゴは日本に存在する宗教的なキリスト教徒のために保護と自由を求めました。日本の王とスペインの王の間の友好関係を維持し育む必要性を繰り返しました。そして、最後に当時スペイン王国の敵であったオランダ人を追放するよう将軍に要求しました。

日本のリーダーは、最初の 2 つの要求をのむことには同意しました。しかし、最後の3つ目の要求には応じませんでした。なぜなら、オランダとは既に合意していたからです。この後に、将軍はメキシコへの旅を続けることが出来るようにロドリゴ ・ デ ・ ヴィベロに船の提供を申し出ました。2 ヶ国間の通商路はを開くために商人を連れてくるという唯一の要求と引き換えに。

ロドリゴ ・ デ ・ ヴィベロはスペインと日本の新しい関係につながる交渉活動が始められるように1年以内に船を提供するという条件でこの要求を受け入れました。

こうして、23人の 日本人代表とフランシスコ会の神父アロンソ ・ ムニョスに伴われ、日本大使館をスペインに送るという使命を持ったサン ブエナヴェンチュラ、ガレオン船は1610 年 8 月に日本を出発し、メキシコ に 10 月下旬に到着しました。この遠征は私たちが最初にお話した主題でコリア ・ デル ・ リオで終わる有名な旅の前任の遠征でした。ロドリゴ ・ デ ・ ヴィベロは、 メキシコにとどまりましたが、アロンソ ・ ムニョスはスペインへの旅を続けました。こうして二国間の一連の関係が始まりました。

スペイン王フェリペ 3 世は、村と日本の政府当局によって難破したスペイン人達がどのようにもてなされたかを知らされ、君主が将来、日本の最初のスペイン大使として検討するであろうセバスティアン ヴィスカイーノが指揮する船を日本へ送りました。

この使命では、スペインの王はいくつかの贈り物を徳川家康に送りました。これらすべての贈り物の中で最も有名なものは、最初の日本機械時計と考えられています。この時計は1581 年、スペイン王の時計職人ハンス ・デ・エヴァロによって製造された時計でした。

1611年、スペイン大使館は、後に将軍に時計を贈った浦賀の海岸に到着しました。

この全体の冒険はゴンサロ・ ロブレドによって製作された映画「デル・ナウフラヒオ・ア・ラ・アミスター」から引用しました。セルバンテス・インスティトゥートの図書館にDVDを置いております。どうぞお見逃しなく!

本文 フアン・マヌエル・ガゴ・ブラウリオ

翻訳者 成田千恵

アカプルコを通って日本からスペインへ: スペインと日本の関係の起源についての簡単な説明(その2)

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前回の私たちのブログの記事では、侍、支倉と修道士ルイス・ソテロがスペイン国王フェリペ3世と教皇パウロ5世に会うために、メキシコからスペインに向けて出発したところでお話が終わっていました。

私たちの旅行者は、1614年10月5日にサンル-カル・デ・バラメダに到着しました。そこでは、彼らはメディナ・シドニア公に迎えられました。その後、彼らはセヴィージャ、コリア・デル・リオ、コルドバとトレドを通り、異国情緒あふれる大使館に敬意を払いました。最後に、彼らはマドリッドに到着し、国王フェリペ3世によって迎えられました。

支倉と修道士ソテロは、国王にスペインとの商業同盟を求めるとともに、日本の伝道プロセスを援助するために、より多くのフランシスコ会修道士を送ってもらえるよう依頼しました。さらに、侍、支倉は、王たちの前でキリスト教の洗礼を受け、フェリペ・フランシスコというキリスト教徒の名前を授かることとなったのでした。一方、修道士ソテロは、ローマに行くために財政的支援も要請しました。この援助については、裁判によって8ヶ月かかった後、ようやく認められました。

代表団はサラゴサを通過し、バルセロナでジェノヴァに向けて出航し、1615年10月にローマに到着しました。教皇パウロ5世は、それを受けて、彼らが提示したすべての請願を支持していました。しかし、彼は約束はしたくありませんでした。最終決定はスペイン国王の決断にゆだねるべきだと判断していました。

一方、日本では徳川家康が死亡しました。その事実は日の出の国の政治経済状況を変えました。キリスト教徒に対する迫害を強化していた日本のキリスト教徒の悪化状況に関するニュースは、ヨーロッパにまで届いていました。

このような状況の下、1616年1月、日本大使館はスペインに向けて出発し、マドリッド裁判所に向かう途中で、手紙により彼らの要求が受け入れられなかったことを知らされました。彼らはまだセヴィージャにいたのですが、侍、支倉と修道士ソテロは自分たちの要請を受け入れてもらえるよう、再度、枢機卿ボルゲーゼ、教皇と国王に何通かの手紙を送るという最後の努力をしたものの、結果的に無駄な努力となってしまいました。

1617年7月4日、彼らはメキシコに向けて出発し、1618年にマニラに到着しました。支倉は1620年にようやく日本に帰る許可を得られましたが、それまで絶え間なく届いていた支倉の知らせはここで途絶え、1622年、支倉の死因は誰にも知られないまま、彼は逝去することとなってしまいました。

修道士ソテロは日本におけるキリスト教徒の扱いが悪化している状況にもかかわらず、1622年、商人になりすまし、日本に戻ります。けれども、すぐに捕らえられ、1624年に長崎の近く大村で生きたまま焼かれてしまいました。

要するに、この10年近くにわたる世界一周の旅は、日本とスペインの間の商業協定と、日本のキリスト教普及におけるより大きな協力という主要目標には達することはできませんでしたが、これまで遠く離れた2国間の最初の外交接触となったのでした。

目標は達せられなかったものの、現在でもなお、その冒険の証拠と痕跡を見つけることができます。いくつかの国の書庫で当時の書簡や書類が保存されています。また、絵画には西洋風に装った支倉を見ることができます。そして、コリア・デ・リオのような場所やスペインにおいてさえも、おそらくこの最初の日本大使館に起源を持つと考えられる「ハポン」という苗字の人々が今でも存在しています。

本文 ウ-ゴ・パラシン・ホルダン

翻訳者 成田千恵

書誌

アカプルコを通って日本からスペインへ: スペインと日本の関係の起源についての簡単な説明(その1)

Hasekura orando, tras su conversión al cristianismo en Madrid en 1615.今年2018年で、スペインと日本の外交関係樹立 150 周年を迎えました。 二国間の友好関係、貿易や航海の条約に署名したのは1868年に遡ります。にもかかわらず、初めて日本大使館がスペインに置かれたのはそれよりずいぶん前でした。 この冒険は、400年以上前の 1614 年に遡ります。

当時、日本が変化を遂げていた頃で、太平洋での貿易の増加や日本でのキリスト教の 普及を目指して、これらの目的を実現するためにスペイン人はもちろん、多くの外国人が来日していました。 当時の背景は一部、マーティン・スコセッシの「シレンシオ(沈黙)」という映画に反映されています。主人公は 2人の イエズス会のポルトガル人でしたが。

17 世紀の初めに、徳川家康は、さまざまな日本の大名との間での衝突を終わらせ、封建制度を確立しました。 その時点では、スペイン帝国はマニラ(フィリピン)に、重要な商業の基盤を置いていました。マニラからメキシコへの航海中は海流により、日本を通ることを余儀なくされていました。実際、1609年にフィリピンの暫定知事、ドン・ロドリーゴ・ヴィヴェロ・ヴェラスコが、フィリピンからメキシコに向かう途中、。船が難破し、偶然、日本の御宿の海岸に到着しました。(抱擁の難破船について聞いたことはありませんか。

この出来事により(難破した際、御宿の住民は衣類や食べ物を乗組員に与えたり、家康はドン・ロドリーゴ達を丁寧にもてなした。)、徳川家康、息子の秀忠と幕府はドン・ロドリーゴを介して、メキシコの副王領との間の貿易関係を良好にする機会を得ることができました。 この最初の機会では、すでに日本にいたフランシスコ会修道士だった ルイス・ソテロが交渉の通訳を務めました。

同時に、この頃、スペインは、国王フィリップⅢ世の命令によって、日本の東側にあるという金と銀が採れる伝説の島を発見するために遠征の準備をしていました。そのために、メキシコの総督はセバスチャン・ヴィスカイーノ大将を1611年に江戸幕府に着くように送っていました。この際の家康、秀忠と幕府との対面でも、修道士ルイス・ソテロが通訳でした。

この時、江戸幕府はスペインの君主と直接、通商開設の交渉をするために、日本大使館をメキシコ、スペイン、イタリアに置くという計画を遂行します。また、江戸幕府は、ローマ教王に日本におけるキリスト経の更なる普及をするという使命のために宣教師派遣の支援を求めていました。この最後の点については、歴史学者によると、この要請は日本側が真の関心があったというよりは、江戸幕府のために通訳していた修道士ルイス・ソテロの要請によるものであったようですが。

徳川家康は奥州の北部の大名、伊達政宗の臣下に遣欧使節を委任しました。伊達政宗はメキシコに到達するための造船や侍の支倉六衛門長経を正使として選ぶなどの任務を果たすこととなりました。偶然にも、セバスチャン・ヴィスカイーノ大将の船が前述の通り、フェリペ3世によって遣わされていたのですが、日本への旅で船は大きな損傷を受けていました。そのため、大将はメキシコに帰るためには、この計画の協力に応じるしかありませんでした。

2 年後、 1613 年10月、侍、支倉 六衛門と約 150人の 日本の商人で構成された彼の側近、彼の通訳者である修道士ルイス・ソテロ、そしてヴィスカイーノ大将と彼の乗組員は、アカプルコに向けて出港し、 1614年 1月 に到着しました。記録によると、 主役となった日本の使節団はそこで出逢ったスペイン人とかなりの口論となり、アカプルコ市長自身の介入を余儀なくされました。

まもなく、メキシコ市街に到着した時、彼らは総督、メキシコの大司教の前で、また異端審問で、スペインへの旅行の目的を説明しなければなりませんでした。そのため、しばらくしてからスペインへの旅への許可が下りたのでした。こうして侍、支倉六衛門長経、修道士ルイス・ソテロと30人以上はようやく、ヴェラクルス港からスペインへ向けて出向しました。 残りの側近は支倉の帰りを待つために、アカプルコへ戻りました。
この後の出来事は、この物語の第二部でご紹介します。

本文 ウ-ゴ・パラシン・ホルダン

翻訳者 成田千恵

書誌

イベリア航空による小作文コンテスト スペインで一番好きなこと

イベリア航空による小作文コンテスト
スペインで一番好きなこと

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概要
1. このコンクールの参加対象者は、インスティトゥト・セルバンテス東京の生徒、図書館会員、そして2018年5月に日本でDELEを受験された受験者となります。各参加者小作文1点のみ提出いただけます。

2. 小作文の字数は400ワード未満まで(25行、フォントはTimes New Roman 12ポイント)、自筆であり未刊のもののみとなります。

3. 小作文はスペイン語、もしくは日本語でお書きいただけます。

4. テーマはコンクールのタイトルに関係するものでなくてはなりません。テーマ『スペインで一番好きなこと』
5. にあたっては小作文を centok@cervantes.es まで、Eメールでお送り下さい。(件名は“Concurso de mini-relatos Iberia” でお願いします。)またメール文中に、ご自身のお名前(フルネーム)と住所、電話番号、現在登録されているコース番号、コース担当の講師の名前も記載下さい。図書館会員は会員番号を、11月DELE受験者は受験番号を記載ください。

6. 小作文の提出期限は2018年4月28日(土)までになります。

7. 受賞者の発表は、2018年5月25日(金)に、インスティトゥト・セルバンテス東京のブログ(http://palabras.jp/)にて行います。

8. 受賞者選考は、インスティトゥト・セルバンテス東京館長により統轄され、且つインスティトゥト・セルバンテス東京の職員によって構成された審査員が行います。作文の表現力、創造性、独創性といった要素を評価した上で受賞者を選考します。

9. 受賞者景品は以下となります。

スペイン語小作文最優秀賞:東京―マドリッド間の往復旅行

日本語小作文最優秀賞:東京―マドリッド間の往復旅行

2018年10月までにご利用いただかない場合は、賞の有効期限が切れてしまい、旅行ができなくなる恐れがあります。

10. この小作文コンクールの参加者は、コンクールの概要、当センターの決定事項に同意し、いかなる異議申立の放棄をしたものとします。

11. 当センターは、今コンクールにおいて、明らかに不適切な表現などが見られるものについては失格させることのできる権利を有するものとします。

12. 当団体は、不慮の出来事に対する処置を決定する権利を有するものとします。
13. 当センターは、提出された作文の一部もしくは全文の編集あるいは複製できる権利を有するものとする。

14. 受賞者は、受賞された作文において報酬などを当センターに申し立てる権利を放棄します。また提出された作文は、すべて普及と促進のみに使われます。

15. 受賞者はテレビ、刊行物、ラジオ、インターネットで使われる為に、画像などの権利を放棄する必要があります。

16. 今コンクールへの参加は、コンクールの概要に同意したものとみなされます。

17. 個人情報保護条項。個人情報保護の規則に準じ、コンクール参加者は情報を提供し、現在もしくは将来においていただいた情報がファイリングされること、さらに同参加者の情報はインスティトゥト・セルバンテス東京の商業、財政、機能、統計目的で使用されるものとし、同センターのデータ保管と、適切な営業を目的としたマーケティング調査の実施に使われることを同意したものとする。インスティトゥト・セルバンテス東京は今コンクールに提供された全ての個人情報を保護し、スペイン王国の個人情報保護に関する組織法1999年法令第15号基づいて使用されるものとする。今回の同意は前述の効力を持ち、これに対してする抗議、情報アクセス、修正、データ消去と遡及的効力の無い認可撤廃の権利行使の可能性を害することなく許諾され、インスティトゥト・セルバンテス東京の通知により権利行使されるものとする。

皆様の参加をお待ちしています!

IBERIA

Iberia

www.iberia.com/jp

文化イベントパスポートのポイントで特典あり!

文化イベントパスポート

インスティトゥト・セルバンテス東京のイベントに参加して、全部のスタンプを 手に入れた方にはスペインクラブ店舗で使える2000円のクーポンを贈呈します。
またスペインへのペアチケット(イベリア航空協賛)が抽選で当たるチャンス あり。
パスポートはインスティトゥト・セルバンテス東京1Fの受付で配布します。
*インスティトゥト・セルバンテス東京生徒さんは1つのスタンプ優遇があります。

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Pasaporte cultural

¿Te animas a un viaje por la cultura hispana? Hemos creado un pequeño pasaporte para que lo rellenes durante nuestras actividades culturales. Si completas todos los sellos, obtendrás un bono de 2000 yenes válido en cualquier restaurante de la red Spain Club y participarás en el sorteo de un billete de avión a España para dos personas con Iberia. ¡No esperes más! Pregunta en recepción y obtén tu Pasaporte Cultural. *Los alumnos del Instituto Cervantes tienen derecho a un comodín canjeable por un sello

インスティトゥト・セルバンテス東京は11月27日 “世界のスペイン語2017年” 年鑑を紹介しました

portada_anuario_20175億7千2百万人の人々がスペイン語を話しています。一年前より5百万人増え、21世紀半ばまでには7億5千4百万人に増加するでしょう。

世界中で5億7千2百万人の人々がスペイン語を話しています。そのうち4億7千万7百万人の人々は母国語で、1年前より5百万人以上増加しました。今世紀半ばには、スペイン語を話す人々は、7億5千4百万人になるでしょう。

スペイン語を母国語とする使用者の数は、世界で中国語(9億5千万人)の次です。今日では、世界の人口の7,8%の人々がスペイン語を話していることになります。この割合は英語、中国語使用者の割合が減る間も、少なくとも2050年までは変わらず続くでしょう。

これらは11月27日に、インスティトゥト・セルバンテスの“世界のスペイン語2017年”年鑑に収集された最も重要な資料で、インスティトゥト・セルバンテスの館長フアン マヌエル ボネット、学術所長リカルド ブエノ、教授ダビッド フェルナンデス ヴィトレス、フェルナンド ガルシア カサスが紹介したものです。

“世界のスペイン語”はセルバンテスの専門的な主要な出版物であり、研究者、文献学者、世界中のスペイン語の先生方やスペイン語の研究家のための情報の著作で、1998年に初めて出版されて以来、2017年でその出版の歴史は20年に及びます。

この年鑑はセルバンテスの電子図書館にて閲覧できます

出版物の記録へのアクセス

著作 : インスティトゥト・セルバンテスのプレス部門

翻訳 : 成田 千恵

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