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セルバンテス文化センター東京公式ブログ

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マリオ・バルガス・リョサ:ノーベル文学賞2010受賞演説

2010年ノーベル文学賞を受賞したマリオ・バルガス・リョサ氏の受賞演説が多くの方々を感動させたことは世界各国のニュースでも報道されました。その演説の全訳(翻訳及び注釈:松本健二氏)が駐日ペルー大使館を通じてセルバンテスに届けられました。以下、掲載させて頂きます。

ビデオ⇒クリック。

マリオ・バルガス=リョサ『読書と虚構を褒め称えて』

(ストックホルムにおけるノーベル文学賞受賞演説:オンライン版『エルパイス』紙二〇一〇年一二月八日の全訳)

五歳のころ、コチャバンバ(ボリビア)にあるラサージェ小学校のフスティニアーノ修道士の授業で、読み方を習いました。私の生涯で起きたもっとも重大な事件です。ほぼ七十年が経った今も、あの本のなかの言葉をイメージに変換するという魔術が、いかにこの人生を豊かなものにしてくれたか、あの魔術がいかにして時空の障壁を打ち破り、私がネモ船長と海底二万哩の旅を共にすることを[一]、ダルタニヤンとアトスとポルトスと共に腹黒い枢機卿リシュリューの時代にフランス王国を脅かしていた陰謀に立ち向かう[二]ことを、ジャン・バルジャンに姿を変えて力ないマリウスを背負いパリの下水道を這いまわる[三]ことを可能にしてくれたか、鮮明に覚えています。

読書は夢を生へ、生を夢へと変え、私というこのちっぽけな人間を文学という世界に近づけてくれます。母に聞いたところ、私の初めての創作は、読み終えてしまうのが辛かったか、あるいは結末を変更したくなった物語の続きを書くことだったそうです。そして、ひょっとすると、まさにそれこそが知らずに一生やり続けてきた作業なのかもしれません。かつて子ども心を興奮と冒険でいっぱいにした物語の延長を、成長し、大人になり、年老いるあいだもずっと書き続けるということが。

母がここにいてくれたらどんなに素晴らしいことでしょう、アマド・ネルボ[四]やパブロ・ネルーダ[五]の詩を読んで感激のあまりよく涙を流していた母、私の書いた詩を褒めてくれた大鼻でつるっぱげのペドロお祖父さん、文学という畑がそこを耕す者に大した実りをもたらさないあの時代とあの場所で、お前は文学に身も心も捧げて取り組め、と励ましてくれたルーチョ叔父さん、彼らが今この場にいてくれたら。私のそばにはこれまでずっと、そのようにして私を愛し、力づけ、疑いを抱いたときにはその信念を分け与えてくれた人々がいました。彼らと、そしてもちろんこの頑固さと若干の幸運のおかげで、私は人生の大部分を、ものを書き、現実に並行するもうひとつの生――異常が当たり前となり当たり前が異常となる現実の逆境から逃れてそこに行けば、混沌は解消し、醜きは美しく変わり、瞬間は永遠となり、死も束の間の見世物となるようなそんな世界――を創り出すという情熱、悪習、驚異に身を捧げてくることができました。

物語を書くのは容易ではありませんでした。思い描いていたことを言葉にするとそれは紙のうえで枯れ、思考やイメージはその生命力を失いました。そこに再び力を吹き込むにはどうすればいいだろう? 幸いなことに私の目の前には学んで範とすべき先達たちがいました。フロベールは才能とは弛みない訓練と長年にわたる忍耐であるということを教えてくれました。フォークナーは素材の価値を高めるのも貶めるのもひとえに形式――文体と構造――であることを教えてくれました。マルトゥレイ[六]、セルバンテス[七]、ディケンズ、バルザック、トルストイ、コンラッド、トーマス・マン、彼らは小説において物量と野望が文体的巧緻と語りの戦略と同様に大事であることを教えてくれました。サルトルからは、言葉とはすなわち行為であり、小説や戯曲やエッセイは現実世界とその最良の選択肢に既に深く関与しているので歴史の流れをも変え得る、ということを学びました。カミュとオーウェルからは倫理なき文学は非人間的であるということを、マルローからは英雄的行為と叙事詩が『オデュッセイア』と『イリアス』におけるアルゴノート(船乗り)たちの時代と同じく今もなおあり得るということを、それぞれ学びました。

この演説中に私が何らかのあるいは多くの借りがある作家の名をすべて挙げていけば、彼らの影に私たちは覆い尽くされてしまうでしょう。膨大な数です。彼らには物語を作るという仕事の奥義を教わったばかりか、彼らのおかげで私は人間の深淵を探検し、その偉業に目を見張り、その錯乱に怖じ気を震うことができました。彼らはもっとも世話好きの友人たち、私の職業上の支援者たちで、彼らの本のなかで私は、どんな最悪のときにでも希望はあるということ、生きなければ書くことも物語を紡ぎ出すこともできないという、ただそれだけの理由であっても、人生は生きるに値するということを発見したのです。

私の国のような、文化がごく少数の人間の特権となっていて、本の読者も少なく、あれだけの貧困と文盲と不正に満ちた場所でものを書くというのは独我論的な贅沢ではなかろうか、と自らに問いかけることもありました。しかし、そのような疑念も私の天命の妨げにはならず、食べていくための仕事で汲々としているときですら、ずっとものを書き続けました。私は正しいことをしたと考えています。というのも、文学が社会で花開くのに、仮にあらかじめ高い文化度や自由や繁栄や正義というものが要求されるのであれば、そもそも文学などこの世に存在していなかったでしょうから。むしろ逆に文学のおかげで、文学が形成した意識、文学が火をつけた欲望や焦燥、美しい空想の世界への旅から現実に戻ったときに覚える幻滅などのおかげで、この世で初めて物語を語る人が現れ、その作り話によって人の世に温もりを与えた頃に比べれば、今日の文明社会はさほど過酷なものではなくなっています。過去に読んだ良き本に恵まれていなければ、きっと私たちは今より劣る存在に、今より迎合的で、今ほどの向上心を持たず、今ほどの反抗心を持たない人間になっていたでしょうし、人間の進歩の原動力である批判精神など存在すらしていなかったことでしょう。書くのと同様、読むこともまた実人生の欠如に異を唱えることです。自らが持たぬものを虚構のなかに求める人は、今あるがままの生は、人間を人間たらしめている条件の基盤である我々のこの絶対への渇望を満たすには十分ではない、したがって改善されるべきである、と、そんなことを言う必要もないし知る必要すらないのですが、言っているのです。人は誰でも、わずかひとつの生しかないところを、できればそうであって欲しいと願う多くの違う生をなんとか生きようとして、虚構というものを創り上げるのです。

虚構というものがなければ、私たちは、人の生が生きるに足るのに必要な自由の重要性や、逆にその自由がひとりの暴君や特定のイデオロギーや宗教によって踏みにじられたときに変貌する地獄絵について、今のように意識を向けなくなることでしょう。文学が美と幸福の夢の世界へ我々を沈潜させるのに加えて、あらゆる形の抑圧について我々に警告をする、この事実に疑念を抱く人は、なぜ、市民の行動をゆりかごから墓場まで必死に統制しようとする体制がいつも必ず文学を恐れ、その恐れのあまり文学を抑えつけようと検閲制度を整え、独立心の強い作家をあれほど疑り深く監視するのか考えていただきたい。彼らがそんなことをするのは、本によって人々の想像力が自由に溢れ出るのを放置しておく危険を知っているからであり、また、小説の読者が、虚構を成立させている自由とその虚構のなかで実現している自由とを、現実世界で彼を取り巻いている無知蒙昧と恐怖とに比べたとき、その読者にとって、虚構というものがいかに扇動的なものとなるかを熟知しているからなのです。物語作者とは、自ら望もうが望むまいが、知っていようがいまいが、その物語を創り出す際に、現実世界はガタガタで、日常生活よりも空想のなかの暮らしのほうがずっと豊穣である、と示すことで、人々のあいだに不満感を広めます。一旦そのような確信が市民の感受性や良心に根付くと、彼らはより扱いにくくなり、また、棍棒や異端審問官や看守の姿をちらつかせて今のほうが安心でより良い暮らしなのだと彼らに信じ込ませようとする輩の嘘を、容易には信じなくなります。よき文学は、異なる人々のあいだに橋を架け、私たちを楽しませ、苦しませ、驚かせ、そして我々を互いに隔てている言葉や信仰や習俗や偏見を潜り抜けた地点で我々を結びつけます。巨大な白鯨がエイハブ船長を海に葬り去るとき[八]、東京とリマとトンブクトゥの読者は同じように心臓が縮まります。エンマ・ボヴァリーがヒ素を呑むとき[九]、アンナ・カレーニナが線路に身を投げるとき[一〇]、ジュリアン・ソレルが絞首台にのぼるとき[一一]、そして「南部」でブエノスアイレスから来た図書館員フアン・ダールマンが悪者とナイフの決闘に臨むべくパンパの居酒屋を出て行くとき[一二]、あるいはペドロ・パラモの出身の村コマラの住民が実は全員死んでいることに気付いたとき[一三]、そこで我々が覚える戦慄とは、その読者が、仏陀、孔子、キリスト、アラー、不可知論、たとえ何を崇拝していようとも、背広とネクタイ、ジュラバ[一四]、着物、ボンバーチャ[一五]、どんな衣装を身にまとっていても、常にみな同じなのです。文学は人間の多様性のなかにあって単一の友愛を創り出し、無知とイデオロギーと宗教と言語と愚かさが男性、女性、あらゆる人間のあいだに築く境界線を薄くするのです。

あらゆる時代にぞっとすることがあったように、この我々の時代もまた、狂信者や自爆テロという、人を殺すことで楽園を我がものとし、無垢の者の血が集団的恥辱を洗い流し、その血が不正を正し、偽りの信仰に対して真実を突きつけると信じて疑わない、古い人間の時代です。毎日のように、世界のいたるところで、我こそが絶対的真実の所有者であると考える人間によって無数の犠牲者が生贄にされています。かつて私たちは、全体主義的な帝国が滅びたことで、やがては共存共栄と平和と多元論と人権が定着し、ホロコーストや大量虐殺や侵略や民族浄化戦争などはこの世から消えるものと考えました。そんなことはひとつもありませんでした。新たな形の野蛮が人々の狂信に煽られて蔓延し、大量破壊兵器の増加によって、どんな小さな狂信的贖罪者の集団でもいつか核による災厄を引き起こすという可能性を否定できなくなりました。そんな連中の前に立ちはだかり、連中と向かい合い、これを阻止しなくてはなりません。彼らの数は多くありませんが、その犯罪の轟音は地球全体に響き渡り、それが引き起こす悪夢に私たちは恐れをなします。私たちは、文明社会の長きにわたる苦闘のなかで徐々に獲得してきた自由という財産を我々から奪おうとする人間たちに、決してひるんではなりません。自由民主主義、この欠点だらけではありますが、いまだに政治における多元論、共生、寛容、人権、批判の尊重、合法性、自由選挙、権力の交換可能性といった、私たちをかつての残酷な暮らしから救い出し、文学が仮に提示してみせる美しく完璧な暮らし、自ら創り出し、紙の上に書き、それを読むことで、初めて私たちにふさわしいものとなる――決してたどり着くことのできない――暮らしへと誘うすべての概念を意味し続けているこの自由民主主義というものを、共に守っていこうではありませんか。狂信的殺戮者に立ち向かうことで、私たちは夢を見る権利を、その夢を実現する権利を守ることになるのです。

若いころの私は同じ世代の多くの作家たちと同様マルクス主義者で、社会主義というものが、私の国やラテンアメリカやその他の第三世界で猛威をふるっていた搾取や社会的不正への治療薬となると思っていました。そんな私がスターリン主義と集産主義に幻滅し、今の私がそうであるような――そうであろうと試みている――民主主義者、自由主義者に変貌してゆくまでの道のりは困難かつ時間のかかるものでしたが、そのような転向をうながしたきっかけは、たとえば、最初は私を熱狂させたキューバ革命の変節、ソ連の権威主義的で垂直的な統治形態、強制収容所の金網から逃げおおせた反主流派による証言、ワルシャワ条約機構諸国によるチェコ侵略などであり、またレイモン・アーロン、ジャン=フランソワ・ルヴェル、アイザイア・バーリン、カール・ポパーといった先達たちのおかげでもあり、特にこの最後の人々のおかげで、私は民主主義文化と開かれた社会に関する再評価を行うことができました。これらの思想家たちは、西洋のインテリゲンチアたちがその軽薄さと日和見主義からソ連社会主義の魔力に屈し、もっとひどいときには中国の文化大革命の血なまぐさい魔女狩りに頭を垂れているように見えたときに、英知と勇気の模範となったのです。

私は子どものころいつかパリへ行きたいと夢見ていましたが、それはフランス文学の虜になっていたので、あちらに住んでバルザックやスタンダールやボードレールやプルーストが吸っていた空気を吸えば、きっと自分も真の作家になれる、ペルーから外へ出なければ休みの日だけにものを書く似非作家になってしまうと信じ込んでいたからです。そして、本当に私はフランス文化に負うところが多く、そこからたとえば、文学が天命であると同時に鍛錬であり労働であり執拗さでもあるといった忘れ得ぬ教訓をもらいました。サルトルとカミュがいまだ存命で執筆をし、イオネスコとベケットとバタイユとシオランがいて、ブレヒト演劇とベルイマン映画が世に知られ始め、ジャン・ヴィラールのTNP[一六]とジャン=ルイ・バローのオデオン座が、ヌーヴェル・ヴァーグとヌーヴォ・ロマンと、そしてアンドレ・マルローの美しい文学作品のような演説が、そしておそらく当時のヨーロッパでもっとも劇的な行事であったドゴール将軍によるプレスの会合で彼の轟くような檄が飛んでいた、そんな時代に、私はフランスで暮らしていたのです。ですが、ひょっとすると私がもっともフランスに感謝していることはラテンアメリカの発見かもしれません。フランスで私は、ペルーという国が、歴史、地理、社会政治問題、特殊な生の形態、豊穣な話し言葉、そして書き言葉などが混然一体となって溶け合う巨大なラテンアメリカという共同体の一部であることを学びました。そして、この大陸が誰も見たことがない勢いのある文学を産み出していることを知ったのも、ちょうど同じころです。そこで私は初めてボルヘス、オクタビオ・パス[一七]、コルタサル[一八]、ガルシア=マルケス[一九]、フエンテス[二〇]、カブレラ=インファンテ[二一]、ルルフォ、オネッティ[二二]、カルペンティエール[二三]、エドワーズ[二四]、ドノソ[二五]らを読み、他にも多くの、その作品がスペイン語小説を根底から覆し、その作品のおかげでヨーロッパと世界の大半がラテンアメリカのことを単なるクーデター大陸だとか、オペレッタに登場するカウディージョ[二六]やひげもじゃゲリラやマンボやチャチャチャで使うマラカスだけの大陸としてだけではなく、そうした安易な偏見に基づくイメージを越えたところで、普遍的な言語を用いた思想や芸術表現や文学的空想力もきちんと産み出している大陸とみなすきっかけとなった、そんなラテンアメリカ作家たちの本を読みました。

その当時から今日に至るまで、ラテンアメリカはかなりの躓きや転倒も体験し、またセサル・バジェホ[二七]の詩の言葉を借りるならいまだに「兄弟たちよ、すべきことは山とある」わけなのですが、徐々に発展もしてきました。キューバとそれを支える独裁制[二八]、ベネズエラ、ボリビアとニカラグアのようなポピュリスト的で道化的ないくつかの似非民主主義国家[二九]を除けば、以前ほどひどい独裁政治は減っています。それどころか、大陸のこれ以外の国々で、民主主義は人々の広範な同意に支えられてどうにかこうにか機能しており、ブラジル、チリ、ウルグアイ、ペルー、コロンビア、ドミニカ共和国、メキシコ、そしてほぼすべての中米諸国では、歴史上はじめて、左派と右派が共に合法性と批判の自由と普通選挙と政権交代を尊重するようにまでなっています。これは良い流れであり、仮にこの流れのなかに踏み止まって、悪質な腐敗と闘い、世界への参入を続けるのであれば、ラテンアメリカは近い将来ようやく未来の大陸であることをやめ、現代へと移行することでしょう。

私はヨーロッパで自らを外国人であると感じたことは一度もありません、本当です、他のどこででもないのです。パリ、ロンドン、バルセロナ、マドリード、ベルリン、ワシントン、ニューヨーク、ブラジル、ドミニカ共和国、これまでに暮らしたすべての場所が自分の家のように思えました。静かに仕事をしながら暮らせて、ものごとを学ぶことができて、夢を育むことができ、友と良き書物と書くべきテーマを見つけることのできる場所に、私は常に愛着を見出してきました。自分が期せずして世界市民になってしまったとか、いわゆる「根っこ」と呼ばれる――大して重要なことでもない――あの自国との絆が弱まったとかいうふうには思いません、仮にそうだとしたら、ペルーでの体験がその後も作家としての私を育て続け、ことあるごとに、仮にペルーとはほど遠い地域の物語を書いている最中にもふと現れてくるようなことは決してなかったでしょうから。生まれた国からこれだけ長いあいだ離れていたことは、むしろその絆を一層強め、さらには、自国に対するより明晰な視野と、付随的なものと本質的なものを見分け、記憶を鮮やかに留め置くのに役立つ郷愁というものを養ってくれたように思います。生まれた国に対する愛というのは義務的なものではなく、ほかの愛と同じ、すなわち恋人や親子や友人どうしを繋ぎとめているのと同じ、心の自発的な運動に他なりません。

ペルーは私の体の奥深くに根付いています。ペルーで生まれ、育ち、自己形成をし、この人格を形作り、作家という天命の土台を固めた少年時代と思春期を送ったのですし、また、ペルーで愛し、憎み、楽しみ、苦しみ、夢をみたのですから。ペルーで起きていることは、他のどこで起きていることよりも私を動揺させ、心を動かし、憤激させます。そう望んできたわけでも、自らにそう課してきたわけでもなく、単なる事実です。同国人のなかには私を裏切り者呼ばわりする向きもありますし、また、私がペルーにおける最後の独裁政権時代に、世界の民主主義国家に向け、その政権に経済外交上の制裁を与えるよう要求した際には、危うくペルー国籍を失うところでしたが、そのような要求を私はペルーに限らずあらゆる独裁政権について行ってきたのであり、敵である独裁についてはその種類を問いません[三〇]。ピノチェトの独裁、フィデル・カストロの独裁、アフガニスタンのタリバンによる独裁、イランのイマームたちによる独裁、南アフリカのアパルトヘイトによる独裁、ビルマ(現ミャンマー)の制服を着た暴君どもによる独裁。もしペルーが再び我々の脆い民主主義を破壊するクーデターの犠牲になるようなことがあれば――神はそんなことを望ます、ペルー人もそんなことは許さないでしょうが――私は明日にでも同じことを繰り返すでしょう。これは、他人を裁くことを生業とする数人の卑屈な性格の匿名人物が書いているように、怨恨を抱えた男の軽率で感情的な行動などでは決してありません。独裁というものがひとつの国にとって絶対悪を意味し、暴虐と腐敗の温床となるという私の信念、独裁というものが癒すのに長い時間を必要とし、未来に禍根を残し、何世代にもわたって消えることのない悪習を創りだし、民主主義の再建を遅延させるほどの深い傷を残すという信念に基づいた行為です。したがって、独裁には、何のためらいもなく、経済的制裁も含めたありとあらゆる手段でもって抵抗しなければなりません。民主主義国家が、キューバにおける白衣の女性たち[三一]やベネズエラの抵抗分子たち[三二]やアウン・サン・スーチー氏や劉暁波氏といった、自らを苦しめる独裁制に敢然と立ち向かっている人々と団結するという手本を示さず、時として彼らとではなく彼らを苦しめる卑劣漢たちのほうに好意的な態度を示すのは、嘆かわしいことです。この勇敢な人たちは自らの自由を得ようとする闘争において私たち皆の自由のためにも戦っているのです。

私の同郷の一人であるホセ・マリア・アルゲーダス[三三]はペルーのことを「すべての血」の国と呼びました。これより上手な定義はほかにないと思います。すべての血こそが我々であり、好むと好まざるにかかわらず、あらゆるペルー人の体のなかにはすべての血が流れているのであり、我々は東西南北いたるところからやってきた伝統と民族と信仰と文化の総和なのです。世界のもっとも優れた博物館、美術館で展示されているナスカやパラカスの織物や羽毛マント、モチーカやインカの陶器といった先スペイン期の文化、あるいはマチュピチュ、グランチムー、チャンチャン、クエラプ、シパン、魔女と太陽と月のワカ[三四]などの建築者たち、さらには皮袋と馬と剣を携えてペルーにギリシア・ローマ、ユダヤキリスト教文化、ルネサンス、セルバンテス、ケベード[三五]、ゴンゴラ[三六]、そしてのちにアンデス山脈が角をとってまろやかにしたこのカスティーリャの無骨な言語を持ち込んだスペイン人たち、そうした人々や文化の継承者であるということは私にとっての誇りです。また、スペインと共にアフリカがその屈強さと音楽と湧き立つような想像力を携えて現れ、ペルーの文化的不均質性を豊かにしたことも。その辺を少し掘り返せば発見できるでしょう、ペルーという国がまるでボルヘスのアレフのような全世界を包含する小さな縮図であるということを[三七]。あらゆる《自己》を持っているがゆえ単一な《自己同一性》をもたないという国に生れる特権はとてつもなく素晴らしいものです!

アメリカ大陸の征服はもちろんほかのどの征服にも劣らず残酷で暴力的なものでしたし、我々はそれを批判せねばなりませんが、そうした批判を行う際に忘れてならないのは、あの略奪と罪悪を犯した人々の大半が私たち自身の曽祖父であり高祖父であるということ、アメリカ大陸に渡りそこで根付いたスペイン人たちなのであって、スペインに留まっていた人々ではないということです。そのような批判は、公正を期すために、自己批判とならねばなりません。なぜならば、二百年前にスペインからの独立を果たした際、それ以前の植民地政府に代わって政権の座についた人々は、インディオを救済し過去の非礼について正当な報いを与えるどころか、スペイン人征服者たちと同じ貪欲さと野蛮さを発揮してインディオを搾取し続け、国によってはほぼ絶滅の危機に追い込んだり、実際に絶滅させてしまったところもあるからです。この際はっきり言っておきましょう。二百年前の独立期から、先住民の解放とはもっぱら我々だけに責任のある問題なのであって、その責任はまだ果たされていないのだと。この責任はラテンアメリカ全体において懸案中の課題です。この恥辱と不名誉について例外はひとつも許されません。

私はペルーと同じくらいスペインを愛しており、この国からは、そこに私が抱いている感謝の念と同じぐらいの恩を受けています。スペインがなければ私は今日この演台に立つことも、そもそも名の知れた作家になっていることもなかったでしょうし、きっと今頃は多くの恵まれない我が同胞たちと同じく、ツキにも編集者にも賞にも読者にも見放され、仮に才能があっても――悲しい慰めですが――死んでからしか認められないような、そんな三流物書きの吹き溜まりをさすらっていたことでしょう。私の本はすべてスペインで刊行され、そこで過度の評価をもらい、カルロス・バラルやカルメン・バルセレスやその他多くの友人たちは、私の本に読者がついたことで楽しい思いをしたでしょう[三八]。そしてスペインは、私が自分の国籍を失う可能性があったときに、第二の国籍を与えてくれました。ペルー人であることとスペインのパスポートを持っていることを両立させるのに不都合を感じたことはこれっぽっちもありません。なぜなら、スペインとペルーは、私というこの小さな人間のなかのみならず、歴史や言語や文化といった本質的現実においても、まさに同じコインの裏表であると感じてきたからです。

スペインの大地で私が暮らした歳月のなかでも、七〇年代初頭に我が愛しのバルセロナで過ごした五年間を、今でもくっきりと覚えています。当時はフランコ独裁制が健在でいまだに銃をバンバン撃っていましたが、それもすでに風前の灯で、とりわけ文化の領域ではかつてのような厳しい統制がまったくとれなくなっていました。検閲では塞ぐことのできない隙間が随所に生まれ、そこを通してスペイン社会はそれまで反体制的であるとして禁じられてきた新しい思想、書物、思想潮流、価値観、芸術スタイルを吸収していきました。こうした開放の始まりをバルセロナほど旺盛かつ巧みに利用し、思想と表現のあらゆる分野で興奮に沸き立った都市はほかにありません。バルセロナはスペインの文化的首都へと変貌し、来るべき自由の予兆を味わうために訪れるべき場所となったのです。また、ある意味でラテンアメリカの文化的首都にもなっていました、というのも、時代を代表する詩人や小説家や画家や作曲家になりたければここへ来るべし、というので、ラテンアメリカ諸国から画家や作家や編集者や芸術家が大挙してこの町に押し寄せ、そのまま定住するか、行き来していたからです。私にとってのあの五年は、同志愛と友情と企てと豊かな知的仕事に満ちた歳月でした。その前のパリと同様、バルセロナもまたバベルの塔、生活と仕事が共に刺激的なコスモポリタンかつ世界的な都市であり、また内戦後では初めて、ここバルセロナでスペインとラテンアメリカの作家が交流し絆を深め、互いを同じ伝統を受け継ぐものと認めあい、ある同じ企てと確信のもとで同盟を結んだのでした。それはすなわち独裁の終焉が間近であり、来る民主スペインでは文化が主役となるという確信です。

私たちの思い描いていたその通りとはいきませんでしたが、スペインにおける独裁制から民主主義への移行は近代史でも稀に見る素晴らしい出来事のひとつであり、良識と理性が勝り、政敵どうしが共通の利益のためにセクト主義を棚上げにしさえすれば、魔術的リアリズム小説顔負けの奇跡が起こせるのだということの好個の例であります。スペインにおける専横的支配から自由への移行、低開発から繁栄への移行、経済格差と第三世界的な不均衡社会から中産階級の国への移行、そしてヨーロッパへの統合と民主的文化へのごく短期間での適応は、世界中を驚かせ、スペインの近代化を推し進める引き金となりました。そんなスペインのすぐそばで、また少しのあいだ内側から生きられたということは、私にとって感動的で教わるところの多い体験となりました。願わくば、近代世界とそしてスペインにとって治癒し難い疫病であるナショナリズムが、この幸福な歴史を損なうようなことがなきことを。

私はあらゆる形のナショナリズム、というよりあの偏狭な宗教、志が低く排他的で、知的地平を切り裂き、民族に関する差別的な偏見を胸の内に隠し、たまたま生まれた場所という単なる偶然の結果を至上原理とし道徳的かつ存在論的な特権とする、あのナショナリズムというイデオロギーを憎みます。宗教と並び、ナショナリズムもまた、先の二つの大戦や中東の血なまぐさい現況のように、歴史上もっとも最悪の流血事件を引き起こす原因となってきました。ラテンアメリカがあれほど小国に分裂し、馬鹿げた小競り合いと論争に血道をあげ、天文学的な数値の金額を学校や図書館や病院ではなく兵器購入のために浪費してきたことに関して、ナショナリズムほど貢献したものはほかにありません。

唯我独尊のナショナリズムや、常なる暴力の温床であるナショナリズムによる「他者」の拒絶を、郷土愛(パトリオティズム)というあの健全で寛容な精神、自分が生まれ祖先が生きその最初の夢を培った場所、慣れ親しんだ風土の光景、愛する人たち、そして記憶のなかに留め置かれ孤独から身を守る盾となってくれる思い出などへの愛と混同してはなりません。この郷土(パトリア)とは、国旗でも国歌でもなければ象徴的英雄についてのお決まりの演説でもなく、私たちの記憶のなかに住み、私たちの記憶を郷愁と、そして、たとえ世界のどこにいようと私には戻るべき家庭があるのだという温かい思いで満たしてくれる、一握りの場所と人々のことなのです。

私にとってペルーとは、たとえばアレキパという自分が生まれただけで暮らしたことのないあの町、母と祖父母と叔父叔母たちが、彼らは皆いかにもアレキパ出身の人間らしく、その放浪の人生のどこへ行っても常に心のなかに「アンデスの白い町」を忘れない人たちでしたから、その彼らが、記憶と懐かしさだけを頼りに私に教えてくれた町のことです。ピウラ、砂漠とカラスノエンドウの、そして若者たちが「脚代わり」という可愛く哀しいあだ名で呼んでいたロバの町、私はそこで赤ん坊をこの世に運んでくるのはコウノトリではなく、男と女が万死に値する滅茶苦茶なことをやって製造するということを初めて知りました。サンミゲル小学校とバリエダーデス劇場では自分で書いた戯曲が初めて上演されるのを見ました。リマのミラフローレス地区にあるディエゴ・フェレ通りとコロン通りの角、快楽横丁と呼ばれていましたが、そこで私は半ズボンを長ズボンにはき替え、初めての煙草を吸い、踊ること、恋をすること、好きな子に告白することなどを学びました。十六歳のとき初めてジャーナリズムという世界の洗礼を受けたのは日刊紙『ラ・クロニカ』の埃っぽいガタピシ揺れる編集部でのことでした。ジャーナリズムは文学と並んで私の生涯をかけた職となり、本と同様、私の糧を得る手段となり、それにより私は世界をよりよく知り、あらゆる地域のあらゆる種類の人々、素晴らしい人、善人、悪人、忌まわしい人物に出会うことができました。レオンシオ・プラード陸軍幼年学校では、ペルーという国が、私がそれまでその枠のなかでぬくぬくと育ってきた中産階級の小さな集団などではなく、巨大で長い歴史を持ち、ひどい病を患った、不平等な、あらゆる種類の社会的災厄に見舞われている国だということを学びました。数人のサンマルコス大の同級生とともに世界同時革命の準備をしたのはカウィデ通りの秘密のアジトでのことでした。そして私にとってのペルーとは、テロによる爆弾と停電と暗殺の三年間を通じて民主主義と自由の文化を擁護するために共に働いた《自由運動》[三九]の友人たちです。

ペルーとはパトリシア、とんがり鼻でじゃじゃ馬の我が従妹、四十五年前に好運にも結婚することができ、私の執筆を支える悪癖やノイローゼや癇癪というものに今もなお耐え続けてくれている我が妻のことです。彼女がいなければ、私の人生などとうの昔に混沌としたつむじ風に飛ばされて消えていたでしょうし、アルバロも、ゴンサロも、モルガーナも、私たちの存在を受け継ぎ華やいだものとしてくれる六人の孫たちも生まれていなかったでしょう。彼女はすべてをこなし、そしてすべてを上手にこなします。問題を解決し、お金の管理をし、混沌に秩序をもたらし、ジャーナリストや突然の闖入者をびしっとはねのけ、私の時間を守り、人と会う約束や旅行の手筈を整え、荷造りをし、その荷を解き、そしてあまりに寛容な性格なので、私は彼女に叱られている時ですら最大の賛辞をもらっているような、「マリオ、あなたにできるのは書くことだけなのよ」と言われているような気がするのです。

文学に話を戻しましょう。幼少期の楽園は私にとって文学的神話などではなく、あのコチャバンバの中庭が三つもあって、従兄弟たちと学校の友だちとターザンやエミリオ・サルガリの物語を再現できるほど大きかった家[四〇]、そしてピウラのあの天井に蝙蝠が巣を張る家と、あの焼けつく大地の上の星空を謎で満たしていた暗闇、そうした空間で味わった現実です。あの頃、家族にとって孫であり甥であり、また既に父親が亡くなっていたことから、一家の父なし子でもあった私にとって、ものを書くということはみんなが褒めてくれる遊びであり、皆の賞賛に値する素質でした。父は海軍の軍服に身を包んだ背の高い好男子で、その写真を私はベッド脇のナイトテーブルに常に置き、夜には必ずそれにお祈りをして口づけをしていました。ピウラにいた頃のある朝、実はこのことから私は今もなお立ち直っていないように思うのですが、母がその写真の紳士は実はまだ生きていると打ち明けました。そして、その同じ日にリマに行き彼と一緒にみんなで暮らすと言うのです。私は十一歳、それ以来すべてが一変しました。私は子供らしいあどけなさを失い、孤独、権威、大人の生活、恐怖というものを初めて知りました。そんな私の救いは本を読むこと、いい本を読むこと、生きることが刺激に満ちた密度の高い冒険に次ぐ冒険であるような本の世界に逃避すること、そこでなら自由を肌で感じふたたび幸せになることのできる本の世界に逃避することでした。それと、人には言えない悪習や秘めた興奮に溺れるかのごとく、こっそりとものを書くことでもありました。文学は遊びではなくなりました。人の悪意に耐え、抵抗し、反抗し、我慢のならないものから免れる手段、生きる理由になりました。それ以来今日まで、がっくりきたり、打ちのめされたり、絶望の淵にいるようなときには、必ず、物語を作るという仕事に身も心も捧げることが、暗いトンネルの彼方に見える光となり、遭難者を浜辺まで送り届けてくれる救命板となってきたのです。

書くというのは重労働で脂汗が出ますし、またあらゆる作家と同様、ときには私もペンが走らず想像力が枯渇する危機に見舞われるのですが、それでも、何か月も何年もかけて物語を構築するということ、すなわち何らかの生きた体験から記憶が保存していたイメージというあの不確かなきっかけに始まり、それがやがて不安と興奮へと変わり、それが空想へと変化して、やがてはひとつの計画になり、そうした亡霊が揺らめく霧のような塊をひとつの物語に変える決心に至るまでのあの過程は、ほかの何物にも替え難い快楽を私にもたらしてくれました。「執筆とはひとつの生き方である」とフロベールは言いました。まさにその通り、反抗的な言葉たちと格闘し彼らを手なずけ、育ち始めた虚構に餌をやり、その物語が育とうとして他のあらゆる物語を呑み込もうとする獰猛な食欲を満たしてやるため、美味そうな獲物を求めて世界中を駆け回る、そんなふうにして頭のなかに夢と喜びと火花を散らす生き方です。胚胎中の小説が形をもち、自力で生き始めるように見えるとき、また、その登場人物たちが自ら動き、行動し、考え、感じ、敬意と気遣いを求め、もはやこちらからは彼らの行動を勝手に押しつけられなくなり、殺しでもしない限り彼らの自由意志を奪えず、うっかりこちらが手を入れると物語に説得力が失われてしまうようになったとき、小説が作者にもたらす眩暈のような感覚を覚えるわけですが、これは初めてのときと変わらず、今もなお私を虜にし続けている体験であり、愛する女性と毎日のように、毎週のように、何カ月にもわたって絶え間なく愛し合うのと同じぐらい、完全で目のくらむ体験です。

虚構を語りながら、小説の話ばかりで、もうひとつの卓越した形式である戯曲についてはほとんど語ってきませんでした。もちろん大変不当な行為です。十代のころにリマのセグーラ劇場でアーサー・ミラーの『セールスマンの死』を見て、その舞台の感動が胸に刺さり、慌ててインカに関する戯曲を一作書きあげて以来、戯曲は私の初恋の相手となりました。もし一九五〇年代のリマに演劇運動があったら、小説家の前に劇作家になっていたことでしょう。そうした運動はなかったので、私は次第に小説のほうへ傾いて行きました。ですが、私の芝居への愛は決して止むことがなく、小説の影にひっそり隠れて眠りについていたのです、誘惑、郷愁として、とりわけ心を打つ作品を見た時などには。一九七〇年代の終わりごろ、かつてその人生の晩年に周囲の現実との接点を完全に失い、思い出の世界に浸っていた百歳になる大叔母《大ばあちゃん》の忘れ得ぬ思い出が、私にあるひとつの物語を着想させました。そして、なにか不吉な予感のように、その物語は芝居向きで、舞台の上でこそ完成された虚構としての活力と輝きを放つ、という気がしたのです。まるで駆け出し作家みたいな興奮に打ち震えながらその戯曲を書きあげ、幸いにも主役にノルマ・アレアンドロを迎えた上演を見ることができ、それ以来、小説と小説の合間に、エッセイとエッセイの合間に、何度も戯曲に手を染めてきました[四一]。おまけに、七十歳になって自分自身が役者として舞台に上ることになろうとは(この歳では、這いのぼる、と言うべきでしょうね)、まさか思ってもみませんでした。まったく恐れ多いこの冒険のおかげで、私のようなこれまでずっと虚構を書いてきた側の人間が、数時間のあいだ空想のなかの人物を演じ、観客の前で虚構を生きるという奇跡を初めて身をもって体験できました。私を励まし、いっしょにあの魅惑の(パニックを伴いはしましたが)体験を共有してくれた、我が親愛なる友人ジョアン・オレー監督と女優アイターナ・サンチェス・ヒホンには、いくら感謝しても足りないでしょう。

文学は生の偽りの表象でありますが、それを通して私たちは生をよりよく理解し、私たちが生まれ、通過し、死んでゆくこの迷路を歩く術を知ることができます。文学は実人生が我々にもたらす逆境や挫折の埋め合わせとなり、文学のおかげで、人類の大半にとって、とりわけ私たちのように確信より疑惑を抱きがちな性格の人々にとってそう見えがちな人生というこの象形文字を、部分的にでも解読することが可能になり、超越的存在、個人と集団の運命、魂、歴史の意味、あるいはその無意味、合理的知性のこちら側と向こう側といった話題を前にしたときに覚える当惑を打ち明けることができるのです。

ようやく意思疎通ができるほどの言葉が生まれた頃、ほとんど動物と見分けがつかない我々の祖先たちが、稲光や雷鳴や野獣の咆哮といった自然の驚異で煮えたぎる夜に、洞窟のなかの焚火を囲んで物語を作り、それを語り始めたときの遠い不確かな光景を想像するたび、私はわくわくします。それこそが人類の運命にとっての決定的瞬間でした、なぜなら、語り部の声と空想にじっと耳を澄ませる原始人たちの集会において初めて文明が、徐々に人間を人間的にしてゆき、自立した個人というものを生み出し、その個人を部族から切り離してゆく長い道のりが、科学が、芸術が、法律が、自由が、自然と人体と宇宙の謎の探査が、宇宙旅行が、その後の一切が始まったからです。いまだあらゆるものが未知で、恐ろしい世界の神秘と危険を前にたじろいでいた、当時の聴衆たちに、初めての音楽のように響き渡ったそれらの物語、作り話、神話、伝説は、当時の人々、生きるということが何とか食べていくこと、自然の要素から身を守ること、殺し、交わることに過ぎなかった人々の魂にとって、爽やかな水浴びのごとき安らぎの場となったに違いありません。共同体を夢に見、語り部に促されてその夢を分かち合ってから、彼らは迷信の頸木や人を兇暴にさせる無数の雑事から解き放たれ、そして彼らの生は、夢と快楽と空想へ、革命的な目的へ、すなわち監禁状態を打破し、変化し、改善することへ、空想で思い描いた生が喚起する欲望と野望を満たすための戦いへ、そして、身のまわりにあまねく存在する不可知な領域を明らかにしようとする好奇心へと変貌していったのです。

その絶え間ない進化の過程は、文字が生まれ、物語が単に聞くばかりではなく読めるようにもなり、現在の文学がもつ永続性を獲得したときに、いっそう豊かなものになりました。だからこそ、そのことをもって我々は、次世代の人々が納得するまで、繰り返し、執拗に訴えていく必要があります。虚構とは、単なる娯楽や、感性を刺激し批判精神を目覚めさせる知的訓練以上のものであるということを。虚構とは、文明が存在し、自らを更新し、人間の最良の成果を後世に残してゆくために不可欠な条件である、ということを。二度と孤立の野蛮に逆行しないために、人間の暮らしが、物事を深く見はするが自分を取り巻く現実も過去も未来も知らない一部の専門家たちのプラグマティズムに矮小化されないようにするために。自分で発明した機械の主から、その僕や奴隷に落ちぶれたりしないために。そして、そもそも文学のない世界など、欲望も理想も不服従も何もない世界、人間を人間たらしめているもの、すなわち自己の枠を越えて他者のなかヘ移行する能力、夢のなかで粘土をこねて拵えた様々な存在へと変化する能力をすべて失った、ロボットの世界でしょうから。

洞穴から摩天楼に至るまで、棍棒から大量破壊兵器に至るまで、少数部族内での変わらぬ暮らしからグローバリゼーション時代に至るまで、文学は、人間の経験を豊かにし続け、人間が無気力と思いあがりと諦めに屈するのを妨げ続けてくれました。私たちが文学を通じて、自らの実人生に加え、その実人生では決してあり得ない大冒険や大恋愛の主役を張るため拵えてきたあの嘘の人生ほど、人間の心に不安の種を植え付け、想像力と欲望をかきたててきたものは、他にありません。文学の嘘は私たちの体を通して真実となり、そして読者は熱望に取り憑かれて変容し、文学の虚構のせいで凡庸な現実に絶えざる不信の眼差しを向けるようになります。自分が持たざるものを持ちたい、自分と異なる存在になりたい、異教の神々のような地上的であると同時に永遠でもある不可能な存在に近づきたい、我々にそんな夢を見させてくれるこの魔法、文学は、人間関係における暴力を少しでもなくすことに貢献してきたあらゆる偉業の背景にある不服従と反抗の精神を、私たちの魂に注入してくれるのです。暴力を少しでも減らす、そう、根絶するのではありません。私たち人間の歴史とは、幸いなことに、今後も常に未完の歴史となるでしょうから。だからこそ、私たちは夢を見続けなくてはなりません、本を読み、本を書き続けなくてはなりません、それこそが、この死すべき定めを慰め、時間の浸食に打ち勝ち、不可能を可能にするために私たちが見出したもっとも有効な手段なのです。

翻訳および注釈:松本健二


[一] ジュール・ヴェルヌの小説『海底二万哩』を指す。

[二] アレクサンドル・デュマの『三銃士』など一連の小説を指す。

[三] ビクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』を指す。

[四] アマド・ネルボ(一八七〇‐一九一九):メキシコの詩人。

[五] パブロ・ネルーダ(一九〇四‐七三):チリの詩人。一九七一年にノーベル文学賞受賞。

[六] ジョアノット・マルトゥレイ(一四一五‐六八):スペインの騎士道小説作家。バルガス=リョサは騎士道小説の熱心なファンで、マルトゥレイの代表作『ティラン・ロ・ブラン』(田澤耕訳、岩波書店)に関する研究書も著わしている。

[七] ミゲル・デ・セルバンテス(一五四七‐一六一六):今もなお古今東西あらゆるスペイン語文学を代表する偉大な小説『ドン・キホーテ』(牛島信明訳、岩波文庫)の作者。

[八] ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』を指す。

[九] ギュスターヴ・フロベールの小説『ボヴァリー夫人』を指す。

[一〇] レフ・トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』を指す。

[一一] スタンダールの小説『赤と黒』を指す。

[一二] ホルヘ・ルイス・ボルヘス(一八九九‐一九八六、アルゼンチン)の短篇小説「南部」(『伝奇集』鼓直訳、岩波文庫所収)を指す。ブエノスアイレスの平凡な男がパンパ(大平原)の酒場で偶然ナイフを取って死の決闘に赴くという内容。

[一三] フアン・ルルフォ(一九一七‐八六、メキシコ)の小説『ペドロ・パラモ』(増田義郎、杉山晃訳、岩波文庫)を指す。無数の人物の語りで構成されているが、最後にそれらの人物が全て死者であったことが判明する仕掛け。

[一四] モロッコの民族衣装。

[一五] アルゼンチンのガウチョ(牧童)の着る幅広ズボン。

[一六] フランス国立民衆劇場

[一七] オクタビオ・パス(一九一四‐九八):メキシコの詩人。一九九〇年ノーベル文学賞受賞。代表作はメキシコの歴史と文化を論じたエッセイ『孤独の迷宮』(高山、熊谷訳、法政大学出版局)。

[一八] フリオ・コルタサル(一九一四‐八四):アルゼンチンの小説家。代表作『石蹴り遊び』(土岐恒二訳、集英社)は各章に読む順番を記し、前から単純に読んでいくのと二通りの読み方を可能にした実験的な長編小説。

[一九] ガブリエル・ガルシア=マルケス(一九二八‐):コロンビアの小説家。一九八二年ノーベル文学賞受賞。代表作『百年の孤独』(鼓直訳、新潮社)は世界的ベストセラー。バルガス=リョサは著名なガルシア=マルケス論『神殺しの歴史』も著わしている。

[二〇] カルロス・フエンテス(一九二八‐):メキシコの小説家。代表作はメキシコ革命に加わった男の生涯を三つの人称から描いた長編『アルテミオ・クルスの死』(木村栄一訳、新潮社)。

[二一] ギジェルモ・カブレラ=インファンテ(一九二九‐二〇〇五):キューバの作家。代表作『亡き王子のためのハバーナ』(木村栄一訳、集英社)など。

[二二] フアン・カルロス・オネッティ(一九〇九‐九四):ウルグアイの小説家。代表作に『屍集めのフンタ』(寺尾隆吉訳、現代企画室)。バルガス=リョサは最近オネッティ論『虚構への旅』を著わしている。

[二三] アレホ・カルペンティエール(一九〇四‐八〇):キューバの作家。代表作に『光の世紀』(杉浦勉訳、水声社)。

[二四] ホルヘ・エドワーズ(一九三一‐):チリの小説家。代表作に『要注意人物』(邦訳近日刊行予定)。

[二五] ホセ・ドノソ(一九二四‐九六):チリの小説家。代表作に『夜のみだらな鳥』(鼓直訳、集英社)。

[二六] スペイン語の「親玉」「頭領」という意味で、暴力的な支配関係を介して政治を牛耳る者を指す。具体的には軍事政権の指導者や、独裁的な支配体制を敷く為政者などに用いられる。

[二七] セサル・バジェホ(一八九二‐一九三八):ペルーの前衛詩人。難解な作風にも関わらずペルーでは国民的詩人である。

[二八] バルガス=リョサは、一九七〇年代初頭以降、キューバ共産党一党支配体制下で言論の自由が抑圧されていることに異議を唱え続けてきた。同じノーベル賞受賞者でコロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケスがいまだにカストロ首相と親密な間柄であるのとは対照的である。

[二九] ここに挙げられた三国では国家主導のもと企業国有化など半社会主義的な経済政策が進められている。小さな政府による自由貿易促進という新自由主義的な立場を擁護するバルガス=リョサはそうした路線に懐疑的である。

[三〇] バルガス=リョサは一九九〇年代アルベルト・フジモリ政権によって国籍を剥奪されかけた過去をもつ。

[三一] 反カストロ政権を公言するキューバの女性グループ。

[三二] バルガス=リョサはベネズエラのチャベス大統領のようなポピュリズム型の政治家を特に嫌うことで知られている。

[三三] ホセ・マリア・アルゲーダス(一九一一‐六九):ある意味でバルガス=リョサと並んでペルーを代表する小説家。文化人類学者としても知られ、先住民文化への深い理解に基づいた小説を残した。代表作は『深い河』(杉山晃訳、現代企画室)と『ヤワル・フィエスタ』(杉山晃訳、現代企画室)。

[三四] ワカは海岸平地によく見られる先住民の墳墓。

[三五] フランシスコ・デ・ケベード(一五九〇‐一六四五):スペイン黄金時代の作家でセルバンテスと共にラテンアメリカでは広く読まれてきた。代表作は『大悪党』(竹村文彦訳、国書刊行会)。

[三六] ルイス・デ・ゴンゴラ(一五六一‐一六二七):スペイン黄金時代の詩人。難解なバロック的作風で知られる。

[三七] ボルヘスの短篇小説「アレフ」では主人公がある家の地下室で二~三センチの光輝く球体を発見し、そのなかに宇宙空間が原寸大のまま閉じ込められていることを知って驚く。詳しくは『不死の人』(土岐恒二訳、白水社)参照。

[三八] バラルもバルセレスも共にスペインの敏腕編集者。

[三九] 一九八七年に、当時の大統領アラン・ガルシアが銀行を国有化したことに抵抗する形で、市場原理主義を唱える保守政治家たちがバルガス=リョサを担いで生まれた政党。のちに周辺野党と合流して民主戦線(フレデモ)と名を変え、バルガス=リョサはそこから一九九〇年の大統領選に出馬し、当初は泡沫候補だったフジモリに予想外の敗北を喫することになる。そして、この当時、毛沢東主義を唱える極左テロ組織センデロ・ルミノソによるテロ行為がその最盛期を迎えていた。一九八〇~九〇年代にペルー中を席捲したこの《暴力の時代》には、センデロと国家軍双方による多くの民間人死亡者が出たが、これについては現在調査委員会による綿密な検証が地道に行われており、今もなおペルー全土を上げて国民的規模の和解を目指した懸命の努力が続けられている。

[四〇] エミリオ・サルガリ(一八六二‐一九一一)はイタリアの活劇作家で、彼の書いた子供向けの大衆小説はスペイン語圏で非常に強い人気があり、多くの小説家が子どものころにたいていは読んでいるようだ。

[四一] 実はバルガス=リョサは戯曲の達人でもある(すべて未邦訳)。ここで彼が言及しているのは『タクナのお嬢さん』という戯曲で、ある作家が祖母の思い出をもとに芝居を書くその傍らで当の祖母自身が若い姿で現れて物語を繰り広げるという、やや前衛的な作風。

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